埼玉県の北部に位置する羽生市。源昌院は「分福茶釜」で有名な群馬県館林市の茂林寺の孫寺で、禅宗寺院としては珍しく地蔵菩薩を本尊とされています。開基は1605年で羽生城主・木戸忠朝の家臣・鷺坂軍蔵とされ、羽生市藤井上組の源長寺から徳岩正道大和尚を招き、創建されました。

木戸忠朝は上杉謙信の忠臣で羽入市役所北部にあった羽生城の城主でした。諸説ありますが天正2年(1574)羽生の稲子の地で自刃したという伝説が残っています。戒名を「久昌院源心長公居士」といい、源昌院の名前の由来となっています。(曹洞禅HP、由緒書より)

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こちらの源昌院、分福茶釜の昔話があります。郷土研究家の田村治子さんと掘越美恵子さんが県内外の方から採話して、その昔話をまとめた「羽生昔がたり」(昭和59年より刊行)に掲載されているそうで、内容は「分福茶釜にはフタがない」という内容です。茂林寺のたぬきがフタを忘れていったというのです。

境内にはそのお話に因んで狸地蔵と茶釜石があります。どこにあるかウロウロしていたところご住職に教えていただきました。左手側に木々に囲まれていらっしゃいました。

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こちらの狸地蔵は平成29年某所からこちらに移転されてきたそうです。

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雨が降っていたので笠があってよかったよかった(*^^*)

狸は一夫一妻でオス狸はイクメンなので子育て・家庭円満にご利益があり親しまれておりますとのこと。

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茶釜や掛け軸などを拝見させていただきました。ありがとうございます(*´ω`*)

こちらフタのない茶釜でございます

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茶釜の傍らにたぬきの香炉 ちょこんとして可愛い。
茶会でのたぬき話→掛け軸→香炉→酒買い狸→信楽狸といわれている説を最近書籍で読んでいたので感慨深いものがあります。

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分福茶釜の鍔 珍しい逸品

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フタを忘れていった狸の掛け軸
明治から昭和に活躍した画家・石川竹邨の筆。竹邨は名古屋市出身で本名は遠藤克巳。鈴木華邨の門下で花鳥画や動物画を多く描き、特に「鯉」と「狸」などを得意としました。この狸も生き生きとしていますね。

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忘れてしまいましたという顔をしている

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江戸時代に描かれた「木版図」守鶴和尚はタヌキの化身でインドのお釈迦様の説法を聞いていました。この絵はお釈迦様の臨終のときを描いたものなので、タヌキも立ち会っていたのかもとのこと。

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守鶴和尚が立ち去る時に見せたという屋島の戦いを描いた図。他には壇ノ浦も

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分福茶釜図

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茂林寺20代住職が源昌院に送った書

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土台部分にたぬきが描かれています

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月とたぬき

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通帳と絵馬部分は特別に「分福」「稲子」にしてもらったそう

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フタがない茶釜の昔話は4つあるそうです。

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(短く省略しています)

その①くず屋に売られた分福茶釜

茂林寺からタダでもらった茶釜を持って帰ってきたクズ屋さん。上州(群馬)から渡し船に乗って稲子海岸につきました。背中にしょったカゴの中に茶釜があるのですがその重いこと重いこと。「ムジナのやつ寝てるんだけべぇ。困った困った。フタぐらいなら家に置けるのになぁ。またダンナに買ってもらうべぇ」売り先を決めたくず屋さんは大きな家の前にやってきました。

ここのダンナは珍しいものなら何でも買ってくれるのです。茶釜をダンナに見せたクズ屋さん。「これは口を聞く茶釜なんです」「なに?口を聞く茶釜とな」声を低くして続けます「今朝、和尚さまが囲炉裏にかけたらアチチと言ったそうです」
モノ好きなダンナはくず屋さんのいいなりの値段で買いました。くず屋さんは大喜びで帰っていきました。

ダンナは毎日毎日床の間に置いてはいつ口を聞くのだろうか楽しみに楽しみにしていました。しかし、茶釜には何の変化はありません。それどころかダンナの家に不幸が続きました。家の人たちは茶釜のせいではないかと言い出し、困ったダンナはくず屋さんに茶釜を返してしまいました。その時にはずみで茶釜のフタがとれてダンナの家に残ってしまいました。フタくらいならとダンナも軽い気持ちで床の間のすみにおいておきました。このフタが一人歩きして多くのおはなしのタネとなりました。クズ屋さんも茂林寺の和尚さまにわけを話して、もう一度引き取ってもらったそうです。

その②分福茶釜「稲子の巻」

昔、稲子のお大尽さまの家のはなれに、お医者様でもある一人のお坊さんが長い間とまっていました。村人たちを親切にみていたので、とても尊敬されていました。御坊様は天気の良い日は外に出て薬草をとり、石うすでひいて粉にして、それらを調合して薬を作っていました。その薬はとてもよく効いたそうです。

ある日、女中が大騒ぎしてお大尽さまのところにやってきます。お坊さまのいる離れを指さして「シッポ、シッポ」といいガタガタ震えています。お大尽様は急いで離れの方へ向かいます。中を覗くとお坊さまの着ている衣のすそからモジャモジャのシッポが出ているではありませんか。お大尽様はびっくりして腰を抜かしてしまいました。この騒ぎに気付いたお坊さまは姿を消してしまい、離れには茶釜のフタと石うすが残されていました。だれこれいうことなく、あのお坊さまは分福茶釜のタヌキだったんだ」というウワサが広がり、稲子地区には「分福茶釜にゃフタがない」というはやし言葉が受け継がれるようになりました。

その③「ムジナのお礼」

ある晩一人のお坊様が稲子のとある家にやってきました。一晩泊めてほしいとのことだったので、家の人は優しく迎えてあげました。昔はこのようなことがよくあったので誰も気にかけません。お坊様はよほど疲れていたのか三日三晩眠り続けました。やっと目を開けたお坊様にお粥を差し出し、気の優しいダンナはもう少し休んでいくようすすめました。

お坊様は「自分は修行の身です。おかげさまで疲れもとれました。お礼になにもありませんので、この袈裟と一筆したためさせてください」と頭を下げました。サラサラと一筆したため外に出ていきました。ダンナは書かれたものを受け取りました。しかし読めなかったので「何て書いてあるんだべか?」とお坊様を追いかけましたが、どこにも姿はありませんでした。

羽生市藤井上組の源長寺の住職の所へ持っていって読んでもらいました。「礼なく 道に悩む むじな筆」
このお坊様は稲子にあるという「分福茶釜のフタ」を取り返しにやってきた、ムジナの化身だったのかもしれません。ダンナの家には今でも袈裟と書が大切に保存されています。

その④「分福茶釜・井泉の巻」

天正2年(1574)羽生城落城のとき
羽生城の殿様は、妻や子供、女たちを夜の闇にまぎれて逃しました。逃げのびた人々は騎西領正能村(加須市)へ辿り着き、そこに落ち着きました。城内に残ったお殿様はお城で自害したといわれていますが、城の近くにあった源長寺に逃げのびたのでした。城を出るとき、家来の一人がこれから野宿になるやもしれぬと「殿様の水だけは」とひとつの茶釜を持っていきました。ヤカンなどなかった時代です。しかし、源長寺にも追手がきました。殿様と家来たちは茶釜を持ち出し逃げましたが、慌てていたのでフタを忘れてしまいました。裏の利根川を渡り、茂林寺へと逃げのびたのでした。

追手は茂林寺まで来ましたが、当時の茂林寺の住職はとても立派で権力のある方でしたから、なんとか助けてもらうことができました。殿様はしばらくの間茂林寺にお世話になっていましたが、その後自刃したといわれています。和尚様は殿様を気の毒に思い形見の「フタのない茶釜」を寺の宝としました。

貴重なお話とお茶菓子・資料・お土産の蓮までいただきお世話になりましたm(_ _)m

曹洞宗祥平山源昌院
埼玉県羽生市稲子1049−1
羽生市コミュニティバス 井泉・村君ルート「稲子集会所」下車徒歩7分